2008年06月10日
◇◇追悼(宮城黎子さん)◇◇
今日は新聞を読んでいて愕然としました。
宮城黎子さん死去(86)と書かれていました。
私のような一般庶民が、なぜこんな記事を?接点は?と思うでしょ!
そう、あれは・・・・
私達夫婦が2000年に新婚旅行でイギリス(連日ウインブルドン観戦)
に行き、2日目か3日目に雨上がりのベンチで雑談していたところに
年配の女性から日本語で声をかけられました。
その人とは少しの間でしたが、気さくに話をしました。
『チケット入手が困難だったでしょ?』とか
『生観戦はいいよね』とか
『若者の試合を見て、期待のホープを発掘するのが楽しいのよ』とか
いろいろな話をしました。
日本に帰国して、暫くして、たまたまテニス雑誌(テニスクラッシック)
のあるページを見ていて、この女性の顔を見つけました。
な、なんと・・・編集長だったのです。
その時に宮城黎子さんの名前も知りましたが、ただそれだけでして
懐かしさもあって、テニスクラッシックの折り込みはがきの備考欄に
簡単なコメントを書いて郵送しました。
まあ、内容はイギリスでお世話になりました的な事だったと思います。
そしたら・・・
暫くして宮城さんから返事のはがきが送られてきました。
これが、その時のはがきです。
はがきが届くのと、ほぼ同時期ぐらいに宮城黎子さんの経歴について
知ることになり、2度ビックリ。
偶然とはいえ、すごい人とお話できたんだなぁと思うと、この何気ない
『はがき』も、この直筆の文章も私たち夫婦にとっては貴重な思い出で
宝物です。
宮城黎子さんのご冥福をこころからお祈り申し上げます。
-----以降----記事をそのまま転記--------
1950~60年代の女子テニス界で活躍し、全日本選手権で
シングルス10回優勝などの歴代最多記録を持つ宮城黎子
(みやぎ・れいこ=日本テニス協会顧問、日本女子テニス連盟名誉会長)
さんが1日、がんのため東京都世田谷区内で死去していたことが
9日、分かった。86歳だった。東京都出身。親族で密葬を済ませた。
喪主は弟で日本テニス協会顧問の淳(あつし)氏。
東京府立第三高女(現都立駒場高)でテニスを始め、戦争による
中断を経て再開。堅実なストロークで全日本選手権で51年に
ダブルス2種目を制し、翌年シングルスで初優勝した。以来、
シングルスで56~63年の8連覇を含む10回の優勝を果たした
ほか、女子ダブルス11回、混合ダブルス9回と、いずれも史上
最多の優勝回数を記録した。
女子の国別対抗戦、フェドカップでは64年に監督兼任で出場、
日本代表史上最年長の42歳でプレーした。78~82年にも監督
を務めた。
第一線を退いた後も後進の指導や、専門誌の編集などでテニスの普及
発展に貢献。68年の女子庭球連盟(現日本女子テニス連盟)設立に
携わり、97年から昨年まで会長だった。
宮城黎子さん死去(86)と書かれていました。
私のような一般庶民が、なぜこんな記事を?接点は?と思うでしょ!
そう、あれは・・・・
私達夫婦が2000年に新婚旅行でイギリス(連日ウインブルドン観戦)
に行き、2日目か3日目に雨上がりのベンチで雑談していたところに
年配の女性から日本語で声をかけられました。
その人とは少しの間でしたが、気さくに話をしました。
『チケット入手が困難だったでしょ?』とか
『生観戦はいいよね』とか
『若者の試合を見て、期待のホープを発掘するのが楽しいのよ』とか
いろいろな話をしました。
日本に帰国して、暫くして、たまたまテニス雑誌(テニスクラッシック)
のあるページを見ていて、この女性の顔を見つけました。
な、なんと・・・編集長だったのです。
その時に宮城黎子さんの名前も知りましたが、ただそれだけでして
懐かしさもあって、テニスクラッシックの折り込みはがきの備考欄に
簡単なコメントを書いて郵送しました。
まあ、内容はイギリスでお世話になりました的な事だったと思います。
そしたら・・・
暫くして宮城さんから返事のはがきが送られてきました。
これが、その時のはがきです。
はがきが届くのと、ほぼ同時期ぐらいに宮城黎子さんの経歴について
知ることになり、2度ビックリ。
偶然とはいえ、すごい人とお話できたんだなぁと思うと、この何気ない
『はがき』も、この直筆の文章も私たち夫婦にとっては貴重な思い出で
宝物です。
宮城黎子さんのご冥福をこころからお祈り申し上げます。
-----以降----記事をそのまま転記--------
1950~60年代の女子テニス界で活躍し、全日本選手権で
シングルス10回優勝などの歴代最多記録を持つ宮城黎子
(みやぎ・れいこ=日本テニス協会顧問、日本女子テニス連盟名誉会長)
さんが1日、がんのため東京都世田谷区内で死去していたことが
9日、分かった。86歳だった。東京都出身。親族で密葬を済ませた。
喪主は弟で日本テニス協会顧問の淳(あつし)氏。
東京府立第三高女(現都立駒場高)でテニスを始め、戦争による
中断を経て再開。堅実なストロークで全日本選手権で51年に
ダブルス2種目を制し、翌年シングルスで初優勝した。以来、
シングルスで56~63年の8連覇を含む10回の優勝を果たした
ほか、女子ダブルス11回、混合ダブルス9回と、いずれも史上
最多の優勝回数を記録した。
女子の国別対抗戦、フェドカップでは64年に監督兼任で出場、
日本代表史上最年長の42歳でプレーした。78~82年にも監督
を務めた。
第一線を退いた後も後進の指導や、専門誌の編集などでテニスの普及
発展に貢献。68年の女子庭球連盟(現日本女子テニス連盟)設立に
携わり、97年から昨年まで会長だった。